『チェンソーマン』完結!アニメ化!第二章!ウオオオオオオオオ!ということで、興奮冷めやらぬうちにお気持ちを書き残しておきたい。
ただ、この漫画がいかにすごいかなんてことを語るには、悲しいかな俺の素養が足りておりません。というのも、『チェンソーマン』は藤本タツキ先生の触れてきた漫画や映画、アニメ、その他、数々の表現作品の影響がかなり露骨に表れている作品であり、『チェンソーマン』の魅力の全てを味わい尽くすには、それらを網羅しておく必要がある(っぽい)からです。
残念ながら、俺はこれらの作品をあまり多く履修できていないので、とりあえず『チェンソーマン』から文字通り読み取れたことを軸に現状の感想を書きます。雑語り失礼。
以下、『チェンソーマン』のネタバレを含みます。
俺が『チェンソーマン』を語る時に挙げたいテーマには大きく「夢」と「愛」と「思惟」があって、中でも今回取り上げたいのは「思惟」の話。
最終話にはその全てが詰まっていて語り尽くすのが難しいので、ひとまず「夢」と「愛」の部分に関してはTwitterで見かけた感想を紹介させていただきたい。感情のアウトソーシング。
チェンソーマン、夢バトルがまさか最終回で「相手の夢もできる範囲で協力してやろう」という理屈で否定されるとはね ぐうの音もでねえ…
— マツモトキヨシ (@nnachtwachen) 2020年12月13日
わかる!「デンジの夢を私に見せてくれ」から始まる物語が至る結末として最高!
チェンソーマン、愛を与えられなかった少年が、ポチタに無償の愛を与えたことで夢と命を託され、偽物の「家族」が本物の絆になって、愛を与え赦す存在としての使命を全うする、めっちゃくちゃ美しい愛の物語として円環が閉じっていった…………
— 亗 (@PONKOTSUforever) 2020年12月13日
わかる!『チェンソーマン』の『輪るピングドラム』的な部分、すなわち愛の循環!
チェンソーマン、「これまでの話は全てマキマさんのシナリオ」なのは間違いないんだけど、その過程で知った「抜け穴」とか「真意」とか「料理」とか「幼児の世話」とか「家族のあり方」が全部最終回に繋がってるのあまりにも綺麗過ぎる
— 鳩麦 (@hatomugi_x) 2020年12月13日
わかる!ハチャメチャに見えて全体が綺麗な構成でまとまっているのがすげえ!
皆さん言語化が上手すぎて、ウンウン頷いて共感しました。勝手に引用してすみません。
『チェンソーマン』の最終話は、サブタイトルも「愛・ラブ・チェンソー」というだけあってこの「愛」が前面に押し出されていて、だからこそ俺たちは幸せな読後感に包まれているのだと思う。デンジが支配の悪魔を打ち破る上で、これまでの経験によって心に宿した「愛」が鍵となったのが美しかった。
一方で、それと同等かそれ以上に重大な要素となったのが「考える力」だと俺は思っていて。この「思惟」もまた物語全体を通して「愛」と並ぶ最大のテーマだったような気がしています。少なくとも、この第一部においては。
ざっくり言うと、「思考停止の先にあるのは、狂信や妄信、すなわち他人による支配なので、考えることをやめるな」という物語だったよね、ということです。
何よりもまず、デンジは馬鹿なんですよね。特に物語序盤の彼は自分で考える力なんて全くなくて、欲望の赴くままに動く男。義務教育も受けていないし、ろくに知性も持ち合わせていない。
公安のデビルハンターとして業務にあたる中で、時折思い悩む機会にもぶつかりますが、すぐに考えることを諦めてしまいます。『チェンソーマン』は、この思考停止の権化みたいなおバカな少年が主人公の物語です。彼はそのままマキマを妄信し、思考を放棄して彼女に従うことで、夢にまで見た「普通の生活」を与えられました。
一応、思考停止というのも、悪いことばかりではありません。その例として登場するのが、戦いの中で凄惨な現場を見続けてきた岸部やクァンシといった手練れたち。彼らはあえてそれらから目を背けることで、つまりは馬鹿になることで、気が狂いそうになる過酷な体験から自らの身を守っています。酒に溺れたり、女に溺れたり。そしてその最たる例が、闇の悪魔との戦いを終えた後の「何も見たくねえ…」。見たい部分しか見ないという思考停止です。
余計な知識はつけず、深く考えすぎることもしない。わざと頭のネジを外して、嫌なことは忘れて過ごす。これも一つの賢さであるということを描いたエピソードが、闇の悪魔編(トーリカの師匠戦)でした。
多分なんでもかんでも知りゃあいいってもんじゃねえんだ
(中略)
知らなくちゃいけねえ部分と馬鹿になった方がいい部分があるんだ
ドアの向こうに何があるかなんて…
知らなくていーや…
デンジもこの戦いを通して馬鹿になる賢さを知り、「無知で馬鹿のまま生きる事」、すなわち“知らない幸せ”を選び取りました。彼なりに思考を重ねた末の結論であり、この時点では正しい選択だったように思えます。
ただし、忘れてはいけないのは、「馬鹿になる」はあくまでも特定の状況で役立つ知恵の一つに過ぎないということ。当然、“知らない幸せ”だけがこの世の全てではないし、それに拘ってはいけない。
そしてここで追い打ちをかけるように、銃の悪魔との戦いが始まってしまいます。悲壮な戦いの果てに、アキとの死別によってデンジの「脳ミソが糞になった」のは、彼との生活の中で家族愛にも似た感情を知ったからこそのこと。この“知ってしまった不幸”を食らわされて、“知らない幸せ”の有難みはデンジの中で一層強烈に裏付けられることになるわけです。何も知らなければ、こんな糞みたいな気持ちになることはなかった。もう何も考えたくない。結果、心が折れて、マキマの犬になりたくなってしまうんですね。
確かに本人にとっては楽で幸せな道かもしれませんが、これではただ支配の悪魔に拐かされてもっと酷い地獄へと向かうだけです。思考停止の末路。
俺は最高にバカだからバカみてえにと暮らしてたんだけど
気づいてみりゃあバカのせいで全部ダメになってたんだ
マキマの掌の上で転がされていたことを知り、相棒のパワーとの別れを経て、後にデンジは気づくことになります。支配の悪魔に打ち勝つには、馬鹿になっていてはいけない。自分の力で立ち上がるためには、考えなくてはならない。コギト。
考えろ
考えろデンジクソみたいな脳ミソ絞って考えろ
こうして思索を巡らせたデンジが、改めてマキマへの愛を自覚して、彼女のことを深く思い返し、過去の戦いの記憶を元に策を練ったからこそ、彼は支配の悪魔を打倒する突破口を見つけることができました。愛だけでなく、思惟する彼の存在があったからこその勝利だぞ、と俺は言いたいんですよね。
マキマは、「自分が見たい(かつて地獄で見た)チェンソーマン」の姿しか見ようとしていませんでした。奇しくも、 ここにもまた妄信という名の思考停止があったわけです。チェンソーマンの狂信者であるあまり、デンジ(とポチタ)を正しく認識することができず、足を掬われて身を滅ぼした。
マキマは、チェンソーマンを妄信し続けたが故に負けた。デンジは、マキマを妄信することをやめたからこそ勝てた。考えることをやめなかった方に、勝利の女神は微笑んだ。
そして、デンジがマキマ信者を脱して、もう一度深く考えることができたのは、パワーとの別れがあったから。つまりは、デンジには親友がいたから。デンジは愛を知っていたから。
反対に、マキマは……。
この結末に至る文脈こそが、『チェンソーマン』に込められた一番のメッセージだったと俺は感じています。
ふと現実に戻って考えてみれば、「深く考えず目先の欲で動いた先にあったのは支配」の構図って、案外よく見られるものですよね。カルト宗教やマルチ商法、あるいは悪質なオンラインサロンみたいな。一度信じ込んだら、確証バイアスが働いて抜けられなくなる系のやつです。
生きていると辛いことがいっぱいあって、考えることに疲れてしまうことだってある。誰かに傾倒して無条件に信頼するのは楽で、幸せなことかもしれない。でも、そこで気を確かに持って、よく考えて視点を変えたら、妄信していたものの欠陥に気づくことができたりする。
そして、その力を与えてくれるのは、自分と対等に接してくれる、夢に向かって進む支えになってくれる、そんな愛ある他者なんじゃないか……なんてことが、『チェンソーマン』には描いてあったなあ、という話でした。
他にも語りたい事はたくさんあるけれども、文章がごちゃごちゃになってしまうので今回はこれだけで。
本当はこの話も『ファイアパンチ』の「人はなりたい自分になってしまう」に絡めてするはずだったんだけどな。もうちょっとお話がうまくなりたい。
何はともあれ、『チェンソーマン』完結おめでとうございます。藤本タツキ先生とながやまこはるちゃんに感謝。素敵な作品をありがとうございます。
第二部も楽しみですね。次は戦争の悪魔がラスボスになったりするのかな。そんで第三部は飢餓の悪魔、第四部は死の悪魔。違うか。
書きました。チェンソーマンは愛の物語だったけど、思惟の物語でもあったよなあ!?という話です #チェンソーマン
— ササンチ (@pluMegane) 2020年12月14日
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